公文はうちにはあわせられなかった

 

 

 

3歳のときに つまがすこしだけやってみて

 

 

阿鼻叫喚

 

 

 

 

が いやで 強く止めた記憶がある。

 

 

当時 すずのきをつくってすぐだったんじゃないかな。

 

きっと産休のときと思うんだけど

 

 

 

ほんとうに数ヶ月で終わった。

 

 

公文がどういうものが まったく知らなかったぼくとしては  ふーん   と思った。

 

 

 

 

 

当時 早期教育には関心がなかったから何も知らなかったんだよね。脳の中の1000%はすずのきで占められていたとおもう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最近 むすめとむすこの様子を 勉強に関連づけてみるようになってきているけど、当時も今も 頭の中のほぼ100%は すずのきで埋まってる。

 

 

 

 

 

 

子どもの人生より いまぼくの人生の方が大切だ。子どもは子どもで 自分できりひらいていってくれたらいい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

公文に話をもどすと

 

 

 

 

 

わがやの教育ママは 数ヶ月の時を経て

 

今度は公文のプリントだけを入手した。

 

 

 

 

 

 

時期的には むすこがうまれて育休の頃だとおもう。

 

 

 

 

 

何千枚かは あった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3歳のときの公文は 運筆だった。

 

4歳のときの公文は そこから一歩進んでた。

 

 

 

 

 

結局 また半年から1年くらいで ぼくが強くとめるんだけど、

 

 

 

 

ぼくには あの徹底反復の徹底っぷりが

考えない ことを勧めてるように思えたし

 

勉強を前に進めてく気持ちをすりつぶしてる気がした。

 

早期教育は

引っ張り方や引き摺り方を間違えると好奇心や考えようとする芽を駄目にする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

でも

いかがなものか

とだけいって対案を出さないのはイケテナイ。

 

 

 

 

だから むすめとつまから 公文を取り上げて

ほーぷで考えながら、読みながら進めていく道を模索してきた。

 

 

 

 

 

 

毎日5枚とか10枚とか

ノルマ制は まぁいいとして

 

 

 

どうせ パワーつかって向かわせるなら

もっと考える内容にしないと

 

 

エネルギーのむだ遣いな気がしたんだ。

 

 

 

 

 

公文は わが家はあわせられなかった。

 

 

 

むすめが   というより、ぼくがあわせられなかった。

 

 

 

 

すずのきは 自分で考えることに注力しながら修練させていきたい。

 

 

 

 

目の前の問題を解くことをゴールにするんじゃなくて

 

目の前の問題を考えることや自分の勉強について考えることで、遠くに進み続けるように

 

 

修練していきたい。

 

 

 

 

ほーぷの先どりは ほどいいんだよ。むすめをみてておもう。

 

 

適度だし、教育課程にそってるからムダがないし。

 

 

そこを土台にいくらでも追加していけばいいんだし。

 

 

 

 

今朝

面積と 小数のわり算を勉強してたよ。

左を読みながら。

 

 

 

たぶん    たぶんだけど

先どりは 学校の教科書を読ませてぐんぐんやっていくのが1番ロスが少ないんだとおもうよ。

 

 

 

演習量を確保したいし、すずのきでの再現性を大切にしてるから むすめとむすこの勉強はほーぷを使うけどね。